日本国家概况(第3篇 日本的历史) 日文版.doc

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第三編 日本の歴史 第一章 古代国家の起源 第一節 文化の始まり 人類が地球上に現れたのは、今から約200万年から100万年前の、地質学でいう洪積世初期のことであった。洪積世は氷河時代ともいわれ、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期とが交合におとずれ、そのたびに海面の上昇と下降が繰り返された。この時期には、現在では絶滅した動物が生息し、人類は石を打ちかいてつくった打製石器を使用し、狩猟・漁労や採集などの生活を営んだ。考古学ではこの段階を旧石器時代と呼んでいる。 日本列島は、洪積世(氷河)の時代にはまだアジア大陸と陸つづきであった。その間、東洋象や、それよりおくれてナウマン象・大角鹿・マンモスなどの大形動物が往来していた。人類の集団も、これらの動物の群れを追って移住してきたと考えられる。日本における洪積世の化石人骨は、愛知県牛川、静岡県浜北、大分県聖岳、沖縄県港川などの石灰岩の地層から発見されている。 先土器文化 1949(昭和24)年、群馬県岩宿の関東ローム層の中で打製石器が確認されたのをきっかけに、全国各地の洪積世の地層から各種の石器が発見され、洪積世の時代の人々の生活の様子が知られるようになった。この時期の文化は打製石器を使用するだけで、まだ土器を製作・使用していないところから先土器文化と呼ばれている。 石器は、はじめ河原石などを打ちかいて作られた打撃用の粗末な楕円形石器(握槌・握斧)であったが、次第に主として切断機能を持つナイフ形石器が現われ、そののち刺突用の尖頭器など、用途に応じて分化した道具が作られるようになった。またこの時代の末期には、尖頭器の一種としての石槍や細石器などの小形の剥片石器が作られ、狩猟方法に大きな進歩をもたらした。 縄文文化の成立 今から約1万年前になると、気候は温暖となり、氷河が溶け始めて海面が上昇し、地殻の変動も加わって、日本の国土は大陸から切り離された。こうして完新世(この時期を地質学では沖積世と呼んでいる)のはじめに日本列島が形成され、気候も今日とほぼ同じようになった。 このような自然環境の変化に応じて狩猟方法も変化し、中小の動物を捕らえるために、石槍だけでなく、新しい狩猟具である弓矢が考えだされた。石器も、打製のものだけでなく、新たに磨製石器が製作・使用されはじめた。また獲得した食料を貯蔵・調理する道具として土器が作られ、食生活を豊かなものにした。このころの土器は様々な形や文様を持ち、低温で焼かれた厚手の黒褐色のもので、縄文土器と呼ばれている。 このような弓矢・磨製石器・土器などの使用を特徴とする縄文文化は、新石器文化に属し、その遺跡は北海道から沖縄まで広く分布している。縄文時代の遺跡から出土する人骨を見ると、そのころの人類は現代の日本人とはいくつかの点で違いが見られる。しかし、本質的には同一の系統につらなっており、日本人の祖型ともいえるものがこの時代に形成されたと考えられる。その後、色々な時期に渡来した周辺の人々との混血や環境の変化によって次第に今日の日本人が出来あがったのであろう。 縄文時代の生活と文化 縄文時代の社会の発展は、のちの時代と比較すれば極めてゆるやかではあるが着実に進んだ。住居は地面を掘りこんで作った竪穴住居で、1戸に数人から10人くらいの家族が住み、これらがいくつか集まって一つの集落を形成していた。集落は一般に湧き水が近くにある台地上に営まれ、しばしば中央の広場を囲むように、円形ないし半円形に住居が配置されていた。海岸近くの集落では、貝塚が規則正しく環状または馬蹄形に形成されている。これらのことは、当時の集落が一定の規律のもとに作られ、人々が集団で労働していた可能性を示すものである。当時の基本的な生活圏は、集落とその周辺で狩猟・採集活動を行う狭いものであったが、各地でそれぞれ孤立していたのではなく、かなり遠方の集団との交易も行われていた。 この時代には食料獲得の技術も進歩し、人々は弓矢や石槍を用いて動物を捕らえた。水辺では貝をとったり、丸木舟を使い、釣り針や銛・やすなどの骨角器を用いて魚をとった。また栗や胡桃などの木の実を採集したり、打製石斧で山芋などの球根類を掘り出し、石皿やすり石でこれらを加工して食べていた。人々は集団で力を合わせて働き、収穫物はみんなで公平に分け合った。このような生活の中では、個人的な富や権利の発生を促がすような余剰生産物の蓄積は不可能であり、集団の統率者はいても、貧富の差や階級の区別はなかったと思われる。このことは、住居の規模や構造に大きな違いが見られないことや、埋葬が共同墓地で行われ、個人の富を示す副葬品が伴わないことからもうかがわれる。 この時代の動物や植物資源の獲得は自然条件に左右されることが多く、生産力は低く、人々は不安で厳しい生活を送っていたと考えられる。人々は、あらゆる自然物や自然現象に霊威を認め、呪術によって災いを避け、豊かな収穫を祈った。呪術的な習俗を示す遺物としては、女性をかたどったものが多い土偶、特殊な文様をほどにした土版、そして石棒が見られる。手足を折り曲げて埋葬する屈葬が広く行われたのは、死霊をおそれたためと思われる。また縄文中期以降の人骨には抜歯をしたものが見られるが、これは集団の統制を厳しくし、成人になるものに通過儀礼の一つとして強制的に行わせたものであろう。 第二節 農耕社会の成立 弥生文化の成立 日本列島で数千年にわたって縄文文化が続いているが、中国大陸情勢の影響を受けて、紀元前3世紀ころ、九州北部に新しい文化が起こり、農耕社会が成立した。新文化は、水稲農業と金属器の使用を特徴とし、またこれまでの縄文土器に変わって、弥生土器と呼ばれる薄手で赤褐色の土器が使用された。この文化を弥生文化と呼び、紀元3世紀ころまで続いた。 弥生文化には、ほぼ同時にもたらされた青銅器と鉄器のほか、織物・石庖丁・磨製片刃石斧・貯蔵施設(高床倉庫)など、中国に起源を持つ要素が多く見られるが、磨製石鏃、青銅製の武器などには、朝鮮半島南部の系統を引くと見られる要素もある。さらに西日本の弥生前期の人骨には、縄文人に比べて背丈が高く、朝鮮半島の人々の身長に近いものがあることから見ると、弥生文化は、半島南部で形成された文化の影響のもとに九州北部でまず成立し、それが全国広がったものと考えられる。 農耕社会の発展 水稲農業は、弥生時代前期には、稲作に適した気候条件の西日本一帯に急速に伝わった。やがて中期以降には東日本や東北地方でも稲作が普及したが、関東や東北の一部でも弥生時代前期の稲作が確認されている。稲作の伝播の過程で寒冷地に耐える品種が生み出された。農耕は、採集経済と異なって、人々が自然に働きかけることによって食料を計画的に生産できるので、生活の安定度は著しく高まった。 水稲農業は、前期には低湿地での小規模な湿田の比重が高く、開田や耕作には木の鍬や鋤きが用いられ、籾は直播された。収穫には石庖丁などで穂首を摘み取り、籾摺には木臼と竪杵などが用いられた。後期になると鉄製の刃先をつけた鍬の使用が拡大して、水路の造成などの能率を高め、開田が困難であった地域の耕地の開拓が進み、西日本の一部では乾田も出現した。水路と畦とが整然と配置された静岡県登呂遺跡の水田は、東日本でも農業が着実に発展したことを物語っている。弥生土器は、貯蔵用の壷、煮炊き用の甕、食物を盛り付ける高つきや鉢など、用途に応じた形のものが作られた。木の伐採や加工の道具として各種の磨製石斧が使われたが、後期には斧・刀子などの鉄製工具が普及し、石器は消滅した。 このころの墓としては、九州北部で甕棺墓・箱式石棺墓・支石墓などがつくられ、その他の地域では木棺墓などが知られている。また近畿地方を中心に、九州から東日本に至る各地で、土壙(墓穴)のまわりに方形の溝をめぐらした方形周溝墓がつくられた。一方、有力な首長の出現を背景として、弥生後期には西日本で大きな墳丘墓が作られるようになった。埋葬の方法としては、棺の中に遺体の手足を伸ばしたまま葬る伸展葬が普通であった。 小国の分立 中国の史書『漢書』地理志によると、紀元前1世紀ごろ、倭人の社会は100余国に分かれ、定期的に楽浪郡に使いを送っていたという。また『後漢書』東夷伝などには、紀元57年に倭の奴の国王の使者が、後漢の光武帝に朝貢して印綬を受けたことが記されている。奴の国は今の福岡市付近にあった小国の一つと考えられ、このころ、九州北部を中心とする西日本各地に小国が分立し、中国と交渉をもっていたことが知られる。 九州北部にある弥生中期の共同墓地では、特定の甕棺墓から中国製の銅鏡・銅剣・銅鉾など多くの副葬品が発見されており、この地方に大陸と交通し、豊かな財宝を所持する特権的な首長が出現したことを物語っている。『後漢書』や、金印に見られる「王」は、このような小国の首長を指すのであろう。こうした時期に、西日本では大陸製の青銅器を模倣した国産の銅剣・銅鉾・銅戈・銅鐸などが作られた。 邪馬台国 中国大陸では220年に後漢がほろび、かわって魏・呉・蜀が並び立つ三国時代となった。『魏志』倭人伝によると、倭では2世紀後半に大きな戦乱が起こったが、3世紀になって邪馬台国の女王卑弥呼を建てることによっておさまり、卑弥呼を中心として30ばかりの小国の統合体が生まれたという。卑弥呼は239年、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡などを受け取った。卑弥呼は呪術に優れ、宗教的権威を背景にして国内に君臨したという。 邪馬台国では大人・下戸など、身分秩序があり、政治組織や租税の制も整えられつつあったようである。卑弥呼は、対立していた狗奴の国との抗争の決着がつかぬまま3世紀半ばに死んだ。その後、ついで男王がたったが国内が混乱し、卑弥呼の宗女である壱与が王となることで、ようやく平和になったと伝えているが、これは、男子による王権世襲制がまだ確立していなかったことを示している。倭の女王(壱与)が266年に洛陽へ遣使した記録を最後に、以後約150年間、倭に関する記録は中国の歴史書から姿を消すが、この間に日本では大和政権による国土の統一が進められていった。 第三節 大和政権と古墳文化 3世紀末から4世紀の初めにかけて、瀬戸内海沿岸から畿内にかけて古墳が発生した。古墳は弥生時代の共同墓地とは異なり、特定の個人の埋葬のために作られた大きな墳丘を持つ墓で、古墳の発生は、弥生時代の小国間の抗争、地域的統合の中から、強大な権利を持つ支配者が出現したことを物語っている。 そのころ中国では、三国時代のあとをうけて晋が国内を統一した。しかしその国力は弱く、4世紀初めには、北方の匈奴をはじめとする諸民族の侵入を受けて南に移り、華北では五胡十六国時代が始まった。そのため周辺諸民族に対する中国の支配力が弱まり、東アジアの諸民族は次々と中国の支配を離れて独立し、国家形成へと進んでいった。中国東北部から起こった高句麗は、朝鮮半島北部に領土を広げ、313年には楽浪郡を滅ぼした。半島南部では、韓族が馬韓・辰韓・弁韓という小国の連合を作っていたが、4世紀の中ごろ、馬韓から百済、辰韓から新羅がおこり、それぞれ国家を形成した。 この間の倭人の社会については、文献でははっきりとしたことがわからない。しかし、おそらく東アジアのこのような情勢を背景にして、大きな古墳の集中している大和を中心とした畿内の豪族たちが、連合して大和政権を作り、4世紀半ばすぎには、九州北部から中部地方にかけての地域にその勢力を及ぼしていったものと考えられる。 古墳文化の発展 古墳の構造が盛んに行われた4世紀から6世紀ころまでを古墳時代という。前期の古墳は、単独で水田や集落を見渡す丘陵上にきずかれた。その多くは一定の規則性をもって作られた前方後円墳という特異な外形を持ち、墳丘の表面に葺石を敷き、埴輪をめぐらして、その存在を誇示しようとしている。墳丘の内部には、遺体を安置した木棺をおさめる竪穴式石室や粘土槨が作られ、鉄製武器・工具のほか、銅鏡・玉・碧玉製腕飾りなどの呪術的宝器的なものが副葬されている。これらのことは、この時期の豪族が政治的支配者であるとともに、まだ卑弥呼のような司祭者的な性格を残していたことを示している。 4世紀末から5世紀にかけての中期の古墳は急激に巨大化する。中でも応神陵古墳や仁徳陵古墳は、墳墓そして世界最大級の規模を持っている。この最盛期の古墳は、平野の中に小山のように墳丘をもりあげ、濠をめぐらしたものが多い。古墳の築造は各地に急速に広まり、5世紀には東北地方から九州南部にまで及んだ。とくに毛野・吉備・出雲・日向などの地方には大規模な古墳が数多く作られており、これらの地域の豪族が、大和政権と密接な関係を持ちながらも、独自の勢力を築き上げていたことがうかがわれる。 朝鮮半島への進出 4世紀から5世紀にかけて、倭が朝鮮半島に進出し、高句麗と交戦した。これは、大和政権が朝鮮半島の進んだ技術や鉄資源を獲得するために加羅に進出し、そこを拠点として高句麗の勢力と対抗したことを示すものであろう。『宋書』などには、5世紀初めからほぼ1世紀の間、倭の五王が中国の南朝に朝貢し、高い称号をえようとしたことが記されている。これは中国の皇帝の権威を利用して、朝鮮諸国に対する政治的立場を有利にしようとしたものと考えられる。このような朝鮮半島・中国南朝との交渉を通じて、大和政権は大陸の進んだ技術と文化を取り入れ、勢いを強めた。中期の古墳が急激に巨大化するのは、このころ大和政権の最高の首長である大王の権利が強大化したことを物語るものであろう。 大陸文化の伝来 このような大陸との積極的な交渉を背景に、5世紀には、鉄器生産・製陶・機織・金属工芸・土木などの諸技術が、朝鮮半島から渡来してくる人々(渡来人)によって伝えられた。大和政権は、彼らを韓鍛冶部・陶部・錦織部・鞍作部などと呼ばれる技術者集団に組織し、畿内やその周辺に居住させた。大陸からの渡来者は、その進んだ技術を持って各種の産業の発展に貢献した。また中国の文字である漢字の使用も始まったが、漢字を用いて朝廷の記録、出納・外交文書などの作成にあたったのも、最初は史部と呼ばれる大陸渡来の人々であった。 6世紀に入ると、大陸の宗教や学術も体系的にもたらされるようになった。儒教の摂取は、百済から五経博士が渡来することによって本格的となり、医・易・暦などの学術も伝えられた。南北朝時代の中国を中心に、朝鮮でも盛んになった仏教も、百済などの朝鮮半島の国々から日本に伝えられた。また、漢字や学術の伝来を背景として、6世紀半ばに朝廷で『帝紀』と『旧辞』がまとめられたと考えられる。 大王と豪族 国土統一の進展ともなって、大和政権の基盤は5世紀後半から次第に強化され、政治組織も整えられていった。大和政権は大王を中心に、大和とその周辺に基盤をもつ中央豪族によって構成されていた。豪族は氏と呼ばれる血縁的結びつきをもとにした組織を作り、首長(氏上)にひきいられて大和政権につかえた。各氏はその家柄に応じて朝廷から臣・連・直・造・首などの姓と呼ぶ称号を与えられた(氏姓制度)。豪族はそれぞれ私有地である田荘や、私有民である部曲を領有して、それを経済的な基盤とした。また氏や、氏を構成する家々には奴隷として使われる奴(奴婢)があった。 朝廷の政治は、中央豪族の最有力者である大臣・大連を中心に進められた。朝廷の警備や祭祀などの様々な職務は、伴造と呼ばれる氏やそれを助ける伴によって分担され、伴造は伴や品部と呼ばれる人々をしたがえて、代々その職務に奉仕した。大陸の高い技術や文筆にたけた渡来人には、伴造や伴となるものが多かった。 地方の支配は、朝廷に服属した地方豪族にゆだねられ、朝廷は彼らの多くに、国造・県主などの地位を与えた。また大和政権は、5世紀後半から6世紀にかけて、地方豪族の支配下の農民の一部を名代・子代という直属民とし、また屯倉という直轄地を各地に設けた。 練習問題 一、次の質問に答えなさい。 1、日本列島はずっと前から現在のような形でしたか。 2、原始時代の人々はどんなことをして生活していますか。 3、原始時代の人々はどんな家に住んでいましたか。 4、貝塚というのは何ですか。 5、縄文式土器というのはどんな土器ですか。 6、稲作はいつごろ始まりましたか。 7、銅や鉄の金属器はいつ頃から使われましたか。 8、弥生式土器は、以前より丈夫で形の良いものになりまし たか。 9、紀元1~3世紀ごろになると、国ができはじめましたか。 10、中国の『漢書』という古い歴史の本によると、1世紀 ごろ、日本の国から使者が来たそうですか。 11、『魏誌』によると、倭人の国はいくつかの小国に分かれ ていましたか。 12、卑弥呼という人は、どこの国の女王ですか。 13、卑弥呼が中国に使者を送ったのはいつ頃ですか。 14、4世紀ごろ成立した大和政権はどのような人が作った 国ですか。 15、大和政権はいつ頃日本の大部分を支配するようになり ましたか。 16、前方後円墳というのはどんな形をした古墳ですか。 17、どのような人のことを渡来人と言いますか。 18、渡来人が来て、日本人の生活に大きな進歩があったの はなぜですか。 二、次の( )に当て嵌まる言葉や数字を書き入れなさい。 1、( )時代は、縄文時代や弥生時代に分かれますか。 2、縄文時代は、今から約( )万年前に始まりましたか。 3、弥生時代は、紀元前( )世紀ごろ始まりました。 4、縄文時代の人々は、( )式土器を使い、( )式住 居に住みましたか。 三、次の各文が正しければ○、間違いならばを( )に書 きなさい。 1、 弥生時代は、紀元後3世紀ごろまで続きました。( ) 2、 弥生時代になると、以前よりも広い地域で、稲作が行われるようになりました。( ) 3、 弥生時代になって、初めて金属器が使われました。( ) 四、次の各文の( )の中から正しい言葉を一つ選んで、記 号に○を書きなさい。 1、大和政権の支配者を(豪族.大王.朝廷)と呼びました。 2、5~6世紀、渡来人は(漢字.平仮名.片仮名)や、い ろいろな技術を日本に伝えた。 3、仏教は、6世紀に(インド・東南アジア.中国・朝鮮. インド・中国)を通って、日本に伝来した。 五、課題研究 1、 縄文時代から古墳時代にかけて、墓制の変遷をまとめ、 そこに葬られる人々の社会的な役割について考えてみよう。 2、 農耕社会の発展の中で日本の国家統一が進んでいく過程 を、紀元前1世紀から紀元5世紀ごろまで、各世紀ごと に簡単にまとめよう。 第二章 律令国家の形成 第一節 推古朝と飛鳥文化 中央集権への歩み 5世紀の半ばすぎ、朝鮮半島では高句麗の勢いが強く、百済・新羅は圧迫していた。しかし、6世紀に入ると、百済・新羅はそれぞれ政治制度を整えて勢いを強め、南方の加羅諸国(任那)は562年までに次々に百済・新羅の支配下に入った。大和政権は、加羅にもっていた勢力の拠点を失ったが、なお百済などを通じて大陸文化とのつながりを保った。 こうした中で、大和政権は、6世紀初めに起こった筑紫国造磐井の反乱を鎮め、屯倉や名代の部を各地に置くなどして、地方に対する支配を強めていった。しかし、それとともに、大和政権を作っていた豪族たちも、多くの土地・農民を支配して勢いを強めるようになり、豪族同士の対立が激しくなった。6世紀初めの継体天皇の朝廷で勢いのあった大連の大伴氏は、朝鮮半島に対する政策の失敗によってやがて勢力を失い、6世紀中ごろの欽明天皇の時には、新たに勢いを強めてきた大臣の蘇我氏と、大連の物部氏とが対立するようになった。当時、中央では品部の組織を整え、政治機構を充実しようとする動きが進んでいたが、蘇我氏は渡来人と結ぶことによって朝廷の財政権を握り、政治機構を整える動きを積極的に進めた。 推古朝の政治 6世紀の末、朝廷では、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして政権を独占し、さらに592年には、対立していた崇峻天皇をも暗殺した。このような政情の危機にあたって即位した女帝の推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子を摂政とし、国政を担当させた。太子は大臣の蘇我馬子と協力し、内外の新しい動きに対応して国政の改革にあたることになった。 推古天皇の朝廷では、603年に冠位十二階の制が定められた。冠位は、姓とは異なって、才能や功績に応じて個人に対して与えられるものであり、また次第に昇進することもできた。これは、のちの位階の制の起源を成すもので、役人としての性格を強めてきた豪族一人一人の、朝廷内における地位をはっきりさせるのに役立った。 聖徳太子はまた、604年に憲法十七条を制定し、豪族たちに、国家の役人として政務にあたる上での心構えを説くとともに、仏教をうやまうこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した。また、太子は馬子とともに、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂したという。これらはいずれも豪族を官僚として組織し、国家の形を整えることを目指したものであった。これまでの大王などの称に変わって天皇の称号が用いられるようになったのも、推古朝のころからとみられている。 東アジアの情勢が大きく変化したのに伴って、隋と国交を開くことになった。607年には小野妹子が遣随使として中国に渡った。隋との交渉では、その国書に示されているように、倭の五王時代とは異なり、中国の王朝に対して対等の立場を主張しようとする態度が認められる。遣随使にはまた、多くの留学生・学問僧がしたがった。長期の滞在を終えて帰国した彼らの新知識は、のちの大化の改新に始まる国政改革に、大きな役割を果たすことになった。 飛鳥文化 6世紀に我が国に伝えられた仏教は、はじめ大陸からの渡来人や蘇我氏などによって信仰されたが、蘇我氏が朝廷の実権を握ると朝廷の保護を受けて急速に発展し、朝廷の置かれた飛鳥を中心に最初の仏教文化が起こった。蘇我氏の発願による飛鳥寺、聖徳太子の発願によるといわれる四天王寺や斑鳩寺(法隆寺)などをはじめ、諸氏も競って氏寺を建てた。 こうして寺院や仏像が、古墳に変わって豪族の権威を表すものとなった。しかし仏教は、一般には呪術の一種として信仰され、祖先の冥福を祈ったり病気の回復を願って仏像を作ることが多かった。当時の政治の中心が飛鳥にあったことから、この時代の文化を飛鳥文化と呼んでいる。 古墳時代には、渡来人を中心に様々な面で技術の進歩が見られ、文化は大いに発展した。飛鳥文化はそれまでの古墳文化に、新しく百済・高句麗などを通じて伝えられた中国の南北朝時代の影響が加わって生まれたものである。現存する法隆寺はいったん焼失したのち、7世紀後半に再建されたものと思われるが、南北朝時代の影響を受けた飛鳥建築の特色をよく残している。彫刻でも、法隆寺金堂釈迦三尊像には、北魏の仏像と共通する整った厳しい表情が見られる。これらの金銅像のほかに、法隆寺の百済観音像などの木像もある。また絵画や工芸も伝えられるなど、大陸からの新しい技法の伝来によって飛躍的に発展した。 この時代には仏教の学問的な研究も始まり、法華経・維摩経・勝鬘経の三つの経典の注釈書で、聖徳太子の著といわれる三経義疏が伝えられている。百済の僧観勒が暦をもたらし、年月の経過を記録することがはじまったのもこのころで、歴史書や諸記録の発達にとって大きな出来事であった。 第二節 律令国家の成立 大化の改新 618年、中国では隋が滅び、唐に変わった。唐は、北朝から隋にかけて発達してきた均田制・租調庸制を中心とし、高度に整えられた律令法に基づく中央集権的な国家体制の充実をはかった。このような唐の発展は、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の3国にも大きな影響を及ぼした。 日本では、聖徳太子と蘇我馬子が相次いで死去した後、馬子の子の蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇の時には、蝦夷の子入鹿が自らの手に権利を集中しようとし、有力な皇位継承者の一人であった山背大兄王を襲って自殺させた。このような中で、唐から帰国した留学生や学問僧によって東アジアの動きが伝えられると、朝廷では、豪族がそれぞれに私地・私民を支配して朝廷の職務を世襲するというこれまでの体制を改め、唐にならった官僚制的な中央集権国家体制をうちたてようとする動きが急速に高まった。 645年、中大兄皇子は、中臣鎌足とともに蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、新たに即位した孝徳天皇のもとで皇太子となり、新しい政府を作って国政の改革に乗り出した。新政府では、旧豪族のおもだったものが左右大臣となるとともに、中臣鎌足が内臣、唐から帰朝した高向玄理が政治顧問としての国博士となり、中大兄皇子を助けて政策の立案にあたった。この年、中国に倣ってはじめて年号を立てて大化とし、都を難波に移した。 新政府は、翌646年正月、4ヵ条からなる改新の詔を発した。それは、(1)皇族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて国家の所有とし(公地公民制)、豪族にはかわりに食封などを支給する、(2)地方の行政区画を定め、中央集権的な政治の体制を作る、(3)戸籍・計帳をつくり、班田収授法を行う、(4)新しい統一的な税制を施行する、というもので、新しい中央集権国家のありかたがはっきりと打ち出されている。政府はこの方針に従って改革を進め、こののち、唐を模範とした律令による中央集権国家の体制が次第に形成されていった。 律令国家の形成 中大兄皇子は667年、都を近江に移し、翌年には即位して天智天皇となった。天皇は最初の令である近江令を定めたといわれ、また670年には全国にわたる最初の戸籍である庚午年籍を作り、改新政治の推進につとめた。大化の改新以来、30年近くも政治にあたっていた天智天皇が死去すると、翌672年、天智天皇の弟大海人皇子は、天皇の子大友皇子を擁する勢力と対立して吉野で兵をあげ、美濃に移って、ここを中心に東国の兵を集め、大和地方の豪族の協力を得て近江の大友皇子の朝廷を倒した(壬申の乱)。こののち、大海人皇子は即位して天武天皇となった。壬申の乱によって強大な権利を握った天武天皇は、その権利を背景に皇族を重く用いて天皇中心の政治を行い、律令国家建設の事業を強力に推し進めた。天皇は官吏の官位や昇進の制度を定めて、旧来の豪族を政府の官吏として組織することにつとめ、八色の姓を定めて、豪族を天皇中心の新しい身分秩序に編成した。天皇は、律令や国史の編纂にも着手した。 天武天皇のあとを継いだ皇后の持統天皇は、中央・地方にわたる統治機構を整え、飛鳥浄御原令を施行するなど、律令体制の整備につとめた。天皇はまた、国家運営の中心として、中国の都城に倣った広大な藤原京を、飛鳥の北方に営んだ。こうして、天武・持統両天皇の時代に、大化の改新以来の律令国家建設の事業は、ようやく完成に近づいた。 律令法と統治機構 文武天皇の701年、藤原不比等らの手によって大宝律令が完成し、律令政治の仕組みもほぼ整った。日本の律令は唐の律令を手本としたもので、律は殆ど唐のものと同じであるが、令は日本の実情を考慮し、それに適した形に作られている。律は刑法にあたり、令は行政組織や人民の租税・労役、官吏の服務規定など、国家統治に必要な様々な条項を規定している。律令は長くその後の日本の政治に影響を与えた。 律令で定められた統治組織を見ると、中央には神々の祭りをつかさどる神祇官と、一般政務をつかさどる太政官との二官があり、太政官のもとには八省があって、それぞれ政務を分担した。国の政治は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などからなる太政官の公卿によって進められ、有力な豪族がその地位に就いた。一方全国は畿内・七道の行政区に分かれ、その下に国・郡・里が設けられ、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。国司は中央の貴族が交代で任地に派遣され、郡司はもとの国造など在地の豪族の中から任命され、国司に協力して地方の政治にあたった。なお、特殊な地域をつかさどるものとして、京には左・右京職、難波には摂津職、外交・国防上の要地である九州には太宰府がそれぞれ置かれた。 一方司法制度も整えられた。刑罰としては、笞・杖・徒・流・死の五刑があったが、国家的・社会的秩序を保持するため、国家・天皇・尊属に対する罪は特に重いものとされた。 班田収授法と農民 政府は、人民を戸籍・計帳に登録させ、これを50戸ずつの里に組織することによって、律令政治を末端にまで浸透させる仕組みをとった。戸籍は6年ごとに作られ、それに基づいて6歳以上の男女に一定額の口分田が与えられた。家屋やそのまわりの土地は私有を認められたが、口分田は売買を禁止され、死者の田は6年ごとの班年をまって収公された。これを班田収授法という。班田収授法は、豪族による土地・農民の支配をふせぎ、それらを国家の支配下におくことによって、徴税の対象を確保することを図ったものであった。田地は、班田の便宜のため国家の手で整然と区画された。これを条里制という。 農民は班田収授法によって最低限の生活を保障されたが、他面、国家に対して租・調・庸・雑徭などの重い負担を負っていた。租は口分田などの収穫から3%程度の稲をおさめるもので、地方の国々に貯えられ、その国の経費に充てられた。調・庸は絹・布・糸などをおさめるもので、主に成年男子に課せられ、農民の手で都に運ばれ、中央政府の財源になった。雑徭は国司の命令によって、数日を限って国内の水利土木工事や国衙の雑用などに奉仕する労役であった。 兵役は、成年男子3-4人に1人の割合で兵士に徴発されるもので、諸国に置かれた軍団で訓練を受け、その一部は京へのぼって宮城や京内を警備する衛士となり、あるいは九州北部の沿岸を守る防人となった。防人に充てられたのは、主に東国の農民であった。兵士は、武装や食料などを負担しなければならなかったから、庸・雑徭などを免除されてはいても、その負担は非常に重かった。また戸にとっても、兵士を出すことはその家の働き手をとられることになり、大きな痛手であった。 白鳳文化 天武・持統天皇の時代には、律令国家が形成されていく時代を反映して、清新な文化が起こった。7世紀後半から8世紀初頭にかけての、貴族を中心とする文化を白鳳文化という。 天武天皇は、伊勢神宮をはじめとする神社の祭りを重んじたが、仏教も厚く信仰して、大官大寺・薬師寺などの官立の大寺院を建立し、また金光明経などの護国の経典を重んじた。朝廷が仏教の普及につとめたため、諸国にも郡司などの手になる寺院が建てられた。このように仏教が国家の保護を受けて発展した反面、寺院や僧侶は国家の厳しい監督のもとに置かれるようになった。 この時代には、隋・唐との交渉によって中国文化の直接流入の道が開けたので、美術にも初唐の文化の影響が見られる。興福寺仏頭や薬師寺金堂薬師三尊像などの金銅像はその代表的な作品で、人間的な若々しさにあふれている。とくに法隆寺金堂壁画は、インド・中国の様式を取りいれたスケールの大きい画風を現している。また貴族の間では漢詩が作られ始めた。日本古来の歌謡も、句の音数がこのころほぼ5音と7音に定まり、短歌・長歌の形式が完成し、柿本人麻呂・額田王らの優れた歌人が現れた。それらの作品は『万葉集』に収められ、雄大な格調やこまやかな叙情によって人々の心を打つものが多い。 第三節 平城京の時代 平城京と国土の開発 元明天皇の時、それまでの藤原京に変わって奈良に大規模な都城が営まれることになり、710(和銅3)年、天皇はここに移った。これが平城京で、以後、都が平安京(京都)に移るまでの80年余りを奈良時代という。 平城京は、唐の都長安に倣い、東西南北に規則正しく走る道路によって整然と区画された都市であった。北部中央の宮城(大内裏)には、天皇の日常生活の場である内裏や、政務を行う朝堂、各官庁などがあり、国家の政治の中心を成していた。都は中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に分けられ、さらに東部には外京があった。京内には貴族や官吏の住宅のほか、大安寺・薬師寺・元興寺など飛鳥地方にあった寺院の多くが移され、大陸風の豪壮な宮殿や寺院が、都を華やかに彩った。 このような大規模な都城が造営されたのは、中央集権的な国家体制が整い、国家の富が天皇・貴族に集中したためであった。中央と地方とを緊密に結び付けるため、都を中心に道路が整備され、約16kmごとに駅家を設ける駅制が敷かれ、公用を帯びた役人がこれを利用した。都には東西に官営の市が設けられ、地方から運ばれる産物や官吏に禄として支給された布や糸などがここで交換され、市司がこれを監督した。政府は唐に倣って、708(和銅元)年の和銅開珎をはじめとして銭貨をしばしば鋳造した。政府は、鉄製の農具や進んだ灌漑技術を用いて耕地の拡大に努めたほか、各地に鉱山を開発して、養蚕や織物の技術者を地方に派遣して技術の普及に努めた。 充実した国力を背景に、政府は領域の拡大にも努めた。東北地方に住み、当時の朝廷から異民族とみなされていた蝦夷は、7世紀ころから征討の対象とされるようになり、大化の改新後まもなく、征討のための基地として、北陸に渟足・盤舟の2柵が設けられた。続いて斉明天皇の時代には、阿倍比羅夫が秋田地方の蝦夷を服属させた。8世紀に入ると蝦夷の征討は一層進み、日本海側には出羽国が置かれ、次いで秋田城が築かれ、太平洋側にも多賀城が築かれた。一方、九州南部及び薩南諸島の島々も相次いで朝廷に服属した。 遣唐使 朝廷は、8世紀に入ると、ほぼ15年から20年に1度、大規模な遣唐使を派遣した。遣唐使の渡航は、航海や造船の技術が未熟なうえ、大海を横断する航路をとったこともあって、極めて危険であった。しかし、吉備真備ら遣唐使にしたがった留学生や学問僧たちは、数多くの困難を乗り越え、唐の文物を日本に伝えるうえに大きな役割を果たした。 新しい土地政策 律令政治の展開にともなって、社会の基礎的な産業である農業も進歩した。鉄製の農具が一層普及し、農法の面でも苗代作り・田植え・根刈りが始まっていた。農民は、国家から与えられた口分田を耕作するほか、口分田以外の公有の田を国家から借り、それを耕作した。しかし農民にとって、調・庸の都への運搬や雑徭などの労役の負担はことに厳しく、彼らは農作業に必要な時間までしばしば奪われ、生活に余裕がなかった。天候の不順や虫害などのために飢饉が起こりやすく、わずかなことで生計が成り立たなくなることも多かった。 人口の増加に対して口分田が不足してきたためもあって、政府は田地の拡大を図り、723年には三世一身法を施行して、農民に開墾を奨励した。三世一身法は、新しく灌漑施設を作って耕地を拓いたものには三世の間、旧来の灌漑施設を利用したものについては本人一代に限り、その田地の保有を認めるものであった。さらに743(天平15)年には、政府は墾田永年私財法を発布し、開墾した土地は定められた面積をかぎって永久に私有することを認めた。しかしこのような政策は、登録された田地を増加させる効果があった反面、実際に土地を開墾できる能力を持つ貴族や寺院、地方豪族などの私有地拡大の動きを刺激することになった。ことに東大寺などの大寺院は、広大な原野を独占し、国司や郡司の協力を得、付近の農民や浮浪人などを使って大規模な開墾を行った。これを初期荘園と呼ぶ。 聖武天皇と政界の動揺 8世紀初めには、貴族や中央の有力氏族の間の勢力の均衡がよく保たれ、その協力のもとに律令政治が進められた。しかし社会の変動が進むとともに、藤原氏の進出とも結びついて、政界には次第に動揺が高まってきた。 藤原鎌足の子不比等は、律令制度の
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